1-1 テレビ支配の時代

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日本人とテレビ

 日本人は映像に縁の深い民族である。意外と知られていないが、「モンタージュの父」ことセルゲイ・エイゼンシュテインは日本文化マニアであり、彼が映画文法を考え出すときに参考にしたのは日本の漢字であったと言われている。もちろん、漢字は中国由来のものだから、「日本の」というのはただの偶然なのだが、このことが映像表現の発展に大きなきっかけを与えたことは事実だ。

 さらにテレビ受像機を開発したのも日本人である。1926年(昭和元年)高柳健次郎は世界に先駆けて電子式受像機の実験に成功し、「イ」の文字を映し出した。その後、第二次世界大戦により研究は中断し、実用化と放送開始に関しては欧米に出遅れた。アメリカは1928年に世界初のテレビ放送を果たし、ドイツがこれに続いている。

 NHK日本テレビが放送を始めたのは、1953年。当初は庶民が高価な受像機を買えなかったため、駅や街頭に置かれたテレビを道行く人が取り囲んで見るという、いわゆる「街頭テレビ」というスタイルで視聴が始まった。カラーテレビ放送は1960年に始まっているが、家庭への普及は白黒テレビから始まっているが、冷蔵庫、洗濯機と並ぶ「三種の神器」の一つとして「一家に一台」の時代が到来し、テレビ文化が国民に共有されるようになっていく。

テレビの記憶

といっても、これらのテレビ前史は後からの知識だ。私が生まれたのは1966年。物心ついたとき、家にはすでに小さな白黒テレビが置かれていた。幼い頃、小さな箱の中で小さな人たちが喋っているのはどういうわけだろう?と疑問に思った記憶がある。鏡を前にした猫のようにテレビの裏側を覗いてみたりもした。そのときは「小人なんているわけないし、きっと紙芝居みたいなしかけが中に入っているんだろう」と無理やり自分を納得させたように思う。

 ちなみに私が生まれた年、TBS系では「ウルトラマン」が始まっているのだが、私は長らくその巨大かつ全国的に有名な同級生のことを知らなかった。幼稚園に入って等身大の同級生との会話で初めて知ったのだ。すでに第3作「帰ってきたウルトラマン」が放送されていた頃である。

 なぜかというと、我が家のテレビは基本的にNHKしか映さなかったからだ。テレビが壊れていたわけではない。両親がNHK信者だったからである。チャンネルを回すと局が変わるということを知ったのは小学生になってからで、日曜日の夕方だけは相撲中継の途中でフジテレビに切り替え、「科学忍者隊ガッチャマン」と「サザエさん」を見る権利が与えられた。当時の子ども向け番組はだいたいゴールデンタイムの19:00もしくは19:30スタートだったので、私はそれらの多くを見逃した。

 したがって、私にとって最も古いテレビの記憶は主にニュースであって、中でも衝撃的だったのは「連合赤軍浅間山荘事件」だった。連合赤軍のアジトを警察官が取り囲み、最後には鉄球で建家を破壊する、その一部始終はとてつもなく恐ろしい光景として今も脳裏にある。もう一つ恐ろしいと思ったのはベトナム戦争の報道で、「どうして人と人が殺し合うのか」と父に質問した覚えがあるが、父がどう答えたかについては覚えていない。

 こうした社会的コンフリクトに関する報道は、今思うと子どもの生活の中で唯一の現実的な裂け目ではあったが、テレビコンテンツ全体としてはごく一部だった。むしろザ・ドリフターズ萩本欽一のコント、さまざまな歌番組などのエンターテインメントが花を咲かせた時代である。現実がどうであったかとは別に、テレビはいつも「平和な日本」を映し出していたという印象が強い。

テレビが支配する社会

  その頃、テレビは生活そのものだった。小学生の頃から遠距離通学をしていた私は、地域の子どもたちより朝が早かった。6:20スタートの「明るい農村」のオープニングテーマが目覚まし時計の代わりであり、当然スヌース機能などはないから、そのあとは母の「起きなさい!」という罵声が続く。それでも起きないときは布団をひっくり返された。7:00のニュースを見終わる前に朝食を終え、急いでバス停に向かうという日々だった。学校から戻り、母が買い物に出かけると、特撮やアニメなどの再放送を隠れて見るのだけれども、19:00には必ずチャンネルをNHKに戻され、家族揃ってニュースを見ながら夕食を食べた。当時は生活リズムそのものがテレビとともにあった。

 日々の生活だけではない。特にNHKニュースは季節折々の風景を毎年同じように繰り返してきた。新年は初詣風景や一般参賀天皇の言葉に始まり、(もちろん沖縄復帰後だが)日本で一番早い今帰仁城址の桜開花を伝える。「一足早い春の訪れを伝えています」とナレーションまで毎年同じだ。そのあとは節分、卒業式に入学式、入社式、海開き終戦記念日大雪山系の紅葉、初雪の観測、クリスマス商戦、除夜の鐘等と続き、定まったすごろくのように日本人の年中行事を語るのである。どの家庭でもテレビはリビングの中心に置かれており、家庭生活の時間的な基準になっていたといえる。

 それだけではない。子どもの世界では、「テレビを見ていないと話題についていけないという」同調圧力もあった。極端に言うと、友達と仲良くするためには同じ番組を見なければならない、とさえ私たちは思っていた。折しも、テレビ時代は核家族化の時代とも重なる。集合住宅に暮らす人々が増え、「隣同士のことはよくわからないが、テレビの伝えることはよく知っている」というような、リアルとメディア情報の逆転現象も起きた。「テレビでやってた」というのが知識を披露する際の決まり文句であり、むしろ、テレビで報じられることこそが現実であると信じられていた。テレビは生活必需品であることを越えて、実質的に社会を支配する最大の装置だったといえる。

テレビは現実そのものだった

 こうした「日本人のテレビ好き」は、統計的にも実証されている。少なくとも2005年まで、日本人の平均テレビ視聴時間は1日5.1時間で世界一だった。その後2015年のNHKによる調査で若年層を中心に視聴時間が減少していると報告され、別の調査でアメリカ人の視聴時間が5時間に及んだとの結果があるので、現在はアメリカ人のほうが上かもしれないが、「テレビ離れが進んだ」と言われながらも、国際比較ではいぜん首位であることに変わりはない。

 さらに言うと、インターネットが登場するまで、日本人の多くはリアルとメディアの描く世界を峻別することさえできなかった。言い換えると、テレビを対象化して考えることができなかったのである。言うまでもなく、日本でもテレビ研究というものは論文であれ、書籍であれ今まで大量に書かれてはいるのだが、組織論であったり、マーケティング的な分析であったり、あるいは単なる文化論で、テレビの放つメッセージの社会的な意味合いを捉えた研究は少なかった。ジャーナリズムに関する議論でも、活字ジャーナリズムの延長で語られてきたために、映像表現の問題は手付かずだった。乱暴な言い方かもしれないが、要するに日本人はテレビにどっぷり浸かりすぎて、批判の対象がよく見えなかったのだと思う。かつて日本人にとってテレビは現実そのものだった。

 したがって「テレビの作り手」というのも、かつては見えないところにいた。私が個人的に接したNHKのカメラマンが「テレビの世界では、私はいないことになっているんです」と言ったことがある。これは実に象徴的な台詞だ。一般人がテレビのスタッフに出会うことが少ない、というだけではない。映像表現において一般的であるモンタージュの手法は、作り手を意識せずに内容を伝えられるような仕組みを持っている。多くの人びとは、スタッフがどういう人間か、どうやって作られているかなどということよりも、映像で伝えられるストーリーが紛れもない事実であると信じ、またそれを追うことにしか興味がなかったのである。

 余談だが、これはフィクションに関しても似たり寄ったりである。松本俊雄は著書「映像の探求」の中で、「日本には映画評論はない、あるのは脚本の評論だ」と書いているのだが、これはつまり日本の映画の観客や評論家の興味は主に役者の演技やせいぜいストーリーまでであって、映像の組み立てなどには分析の目が及んでいないとの痛烈な指摘である。

 さて、テレビのスタッフというものに焦点が当たったのは、1985年にテレビ朝日アフタヌーンショー」でのディレクターによる暴力示唆が告発され、さらに1992年のNHKスペシャル「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」の「やらせ」が発覚してからである。「やらせ問題」は一時社会問題化したが、その議論も残念ながらテレビ報道の相対化にはつながらなかった。つまり批判は、「そもそもテレビ報道は人為的な言論である」という今では当たり前の真実には向かわず、「なぜ本当でないことを報道するのか」を焦点とするヒステリックな議論に終始した。「やらせ」の是非はともあれ、少なくともこの時点で日本人の多くは「テレビで示す世界=現実そのものであるべき」と考えていたことになる。言い換えると、「テレビ=現実」という幻想を固く信じていたかったからこそ、当時の日本社会は「やらせ」を批判したのである。

不可解な関係

 かくなる日本社会の性質を鑑みると、当然、テレビの影響力の強さは絶大であったと言わざるを得ないが、ここで疑問になるのは、なぜ日本でテレビがそこまで権威を持つに至ったかという点である。これには簡単に答えが出ない。

 マルクスの後継者の一人であるルイ・アルチュセールは、メディアを学校や文化行事などと並んで「国家のイデオロギー装置」であると位置づけた。軍隊や警察等の暴力的装置(抑圧装置)とは別に、国民を自発的に生産関係に向かわせるための「再生産」のための機能を文化が担っているという考え方だ。

 現在、日本のメディアはその自律性が疑われる事態にはなっている。いわゆる「菊のタブー」やスポンサー企業、政権への配慮というのも現実に存在する。こうなってくると、アルチュセールの仮説がひどく現実味を帯びてきて、恐ろしくなる。いかにテレビ好きの日本人といえども、多くの人が胡散臭いものを感じているはずだ。

 アルチュセールの考え方は文化研究の古典的発想であり、社会運動の中では長らくマスコミ批判の有力な論拠の一つであったともいえる。ただし、メディアの<すべてが常に>国家や資本に支配されているというような仮説は、一部の強権的な国家を除けばあまり現実的な分析とはいえないというか、やや乱暴な論理だと思う。

 歴史的に見ればメディアが政権批判を担ってきた点もまた疑いの余地はないし、そもそも新聞もテレビもそれほど一枚岩ではないのである。経験的に言うと、たとえば一つのテレビ局の中でも基本的には各番組の独立性が高いため、「昼の番組と夜の番組で違うことを言う」ということもありうる。

 また、内容によっては国民側からの批判、特に暴力描写や性描写、少数者差別などに関して「教育上の悪影響」を指摘されることもままあり、視聴者が受動的であるとはいえ、必ずしも常にトップダウンだったわけではない。むしろ、子どもたちの中に「問題行動」があれば、すぐに「テレビの影響だ」と言われ、教育上はどちらかといえば悪者扱いであったのではなかろうかと思う。つまり、視聴者によるコントロールも消極的ながら存在するのである。

 「視聴率」が象徴的だが、国民の嗜好による影響を強く受けているという面も無視できない。それどころか、昨今のテレビは視聴者の投稿動画を放送したり、インターネット上の流行の後追いさえやっている始末で、支配者どころか尻尾を振っているようにしか見えない。日本のスポンサードのシステムの場合、視聴者が間接的に顧客であるという点も大きいだろう。そう単純になんでもトップダウンというわけにもいかない。

 大枠の構造として、テレビもまたイデオロギー装置として君臨していることはおそらく否定できない。しかし例えそうであったとしても、なぜか日本人はテレビをかなり愛好してきたのである。「生産関係の再生産のためにテレビを見させられている」などと感じている人はいない。私のようなテレビ嫌いを除けば、多くの人は好きで見てるのである。そして、「なぜテレビが支持されてきたのか」「なぜ信じちゃうのか」「なぜ長時間見ちゃうのか」という視聴者側の心理は、アルチュセールの論理の俎上にはなく、まったく説明がつかないのだ。この日本人とテレビの不可解な関係について、しばし考察を重ねようと思う。

 

<参考文献02> 

映像の探求―制度・越境・記号生成

映像の探求―制度・越境・記号生成

 

 <参考文献03>

 

アルチュセールの「イデオロギー」論 (プラチック論叢)

アルチュセールの「イデオロギー」論 (プラチック論叢)